太平洋戦争のはじめに日本の捕虜になった者は、連合軍が14万人以上、民間人が10カ国あまりで13万人にのぼる。満州からジャワ島にかけた領域とビルマからニューギニアにかけた領域に、378の捕虜収容所と358の民間人捕虜収容所が散在していた。アメリカ軍捕虜のうち40%が死亡し、オーストラリア軍においては、収容所での死者が戦争での死者を上回った。この経験で学んだ教訓を基に1949年のジュネーブ条約が形成された。独裁的な裁判と虐待から、民間被抑留者と戦争捕虜を保護するための新しいルールは、アメリカ軍による捕虜待遇に関する現在の議論において重要な役割を果たしている。戦争捕虜と民間人捕虜に対し事実上何の方針も持っていなかった日本当局が、どうやって何十万人もの人間を管理するシステムを作ったのか?収容所ごとに、いかに監禁の待遇が異なり、戦争が経過するにつれてどう変化したのか?捕虜の待遇が日本人の間では太平洋戦争の記憶としてほぼ意識されていないのに比べて、アメリカとイギリス連邦でなぜこうも悪評高く語られているのか?

今回のリサーチでは、私の最初の著書「Occupying Power」と同様に、権力をもたない人々の日常的交流が、敵対する社会間の関係においてどのように象徴的な重要性を担うことができるか、ということを示す。また、売春反対運動の台頭や戦争法の改正など、国際的な動きと国境を越えた動向が、逆にどのように地域的で個人的な影響を及ぼすかを、前著の論考とあわせて提示したい。ここでも、軍事記録と外交記録複数の詳細な読解と、現場訪問とインタビューを組み合わせ、複数のアーカイブ資料を利用した国際的調査に基いて研究をおこなう。